(『十字架の祈り』2018年11月号より)
恩恵
荒井克浩 

 
 (今年10月27‐28日に千葉県市川市の山崎製パン企業年金基金会館サンシティで無教会全国集会2018が行われた。今年の主題は「応え給う神」、そこで私は「伝道の場で」と題して発題を担当した。いみじくも現在の私の信仰の内実を端的に語るものとなった。その全文を掲載する。)  

〔前置き〕
 私の発題のタイトルは「恩恵」です。先のKさんの聖書講話において、Kさんが信仰の要諦として「信じて決断する」ということを強調されましたが、私の信仰においては自分で「決断」するという事はありません。決断することも神の側からの恩恵であり、人間の意志を用いての作業ではないのです。信じることもまた自分が為す事ではなく、神の恩恵の結果であり、自分の意志で信じるというものではないのです。私にもKさんにも、信仰の多様性として、それぞれに与えられた信仰があるのであり、それを示して行ければよいのかと思います。(※一部修正;筆者)

1.すべては恩恵である
 私は高橋三郎先生の下で信仰を育んで参りましたが、2009年10月から東京都文京区本駒込で、駒込キリスト聖書集会を始めました。師である高橋先生は、2010年6月に天に召されました。駒込の集会が発足してから丸9年になります。
 私は信仰は恩恵そのものであると信じます。そもそもこの私に与えられるはずのない信仰を与えられたことが神からの恩恵の御業でした。そして本来ならば持てるはずのない私が集会を持てたことも恩恵でした。そこには持てるはずの無い者に持たせた神の御意志があるのかと思います。そして持てるはずの無い私の集会に、現在10数名の方々が集って下さっていること、これも恩恵であります。人間それ自身の意志よりも恩恵は先立つことを信じるならば、見ず知らずの私の集会を尋ねて共に聖書を学び続けている方々がおられる事は、私には説明のつかない事であり、恩恵の事実であります。
 私が独立伝道を始めた時には、所属していた渋谷聖書集会から唯お一人の方が来られただけでした。ですから現在私の集会へ来られている方々は、以前の私の交わりとは全く関係の無い方々です。そしてその多くが教会へ行かれていた方々です。
 私は私が与えられた無教会の精神に基づき、サクラメント、人間的な装いからの脱却を、聖書と自らが与えられてきた恩恵を語りつつ解き明かし続けて参りました。
 現在の教会には制度が紡ぎだす問題はあるようです。それに疑問を感じた方々が私の集会へは来られています。お一人の引退牧師も来られており、牧師のお立場での制度教会への疑問を呈せられ、共に聖書を学んでいます。また制度化された仏教団体に不満を覚え、神の啓示を受けて私の集会へ通い続けている方もおられます。私はこのような事に、無教会の可能性を察し得ます。むしろこれからが無教会が必要とされている時代ではないでしょうか。

 僅かばかりの伝道の経験を通して見つめてきた無教会とは何であるかを、述べさせて頂きたいと思います。結論から言えば、無教会とは恩恵であります。信仰とは恩恵のみであります。人間からの何らの作業も加わらず、天来のもののみ、ということであります。神を信じる、という信仰さえも恩恵である、という事です。
 私が伝道を始めてからしばらくは、そのような信仰は持ち得ていなかったと思います。伝道をしているうちにいつの間にか人間の側からの働き方に諦めを覚え、人間的な力を放棄せしめられ、この信仰が与えられて来たようです。

2.恩恵における無教会の卓越
 古代キリスト教会最大の教父アウグスチヌス(354 – 430年)は、「恩恵の博士」と言われるそうですが、彼の恩恵概念はこのようなものでした。「われわれがキリストを信ずることができたというのは神の恩恵である。自分の意志でそうなったわけではない。けれども神の恩恵というのはそれだけではない。キリストを信じた後において善き生活を欲することも、それから善き生活をしようという意志を持つことも―善き生活を意志することもそれを実行することもキリストの恩恵なくてはできない。われわれの自由意思で自分の力でそれができるなどということはない。徹頭徹尾神の恩恵である。アダムが罪を犯して以来、われわれは神に来たことも自分の力ではできないし、来てから後に善を欲することもそれを行うこともできない」「キリストを信じるようになったことも恩恵であるし、義と認められたことも恩恵であるし、義と認められたものが潔められてゆくことも恩恵であって、神の恩恵なくして私どもが自分の力で潔き生活ができるなどということはない」。*
 信仰を与えられるのも、その後の歩みも、清められていくことも、神からの恩恵による、人間の力によってではない、という事です。
 この恩恵論は後にマルチン・ルターも学び尊重し、自分の新しい神学を形成します。*
 そして私の察するところ、内村鑑三の与えられた信仰は、この恩恵のみの信仰の極みと徹底ではないかと思うのです。
 アウグスチヌスは極めて透徹した恩恵論を示しました。しかし彼は教会の司祭です。人間の側から救いへ至る足掛かりとしてサクラメントを不可欠のものと捉えていました。ルターも恩恵論を示しましたが、宗教改革に当たり、カトリックの7つのサクラメントの内、洗礼と聖餐の2つを残しました。しかし内村鑑三は、洗礼・聖餐を含むサクラメントはあってもなくてもよろしい、救いとは関係ないと言いました。救いに人間の側からの梯子が何にもないのです。そして今日の私どもの礼拝で、洗礼・聖餐は行っておりません。
 無教会がキリスト教史において卓越している事は、人間的な作業を一切排除した全くの恩恵のみの信仰、恩恵に徹底して与る信仰である事だと思います。私たちは一切のサクラメントを必要としない、神からの恩恵のみに縋りつく歩みを為し得ている事と思います。その意味で極めて本質的な信仰なのです。それは宗教改革的営みと言って過言ではないのかも知れません。

 すべてが神の側からの恩恵ならば、人間の側でなせることは何もないのか。この疑問に関して、敬愛する三谷隆正先生は著作「アウグスチヌス」に於いて、恩恵(恩寵)の事を語りつつ、このような事を言っておられます。

 「アウグスチヌスのこのような信仰を推理して往くと、能も意も有も一切が神からの他力賜与であるから、人間かれ自身に対して斯うせよあゝせよと要求する余地はないことになる。人間は神の意志により斯うなりあゝなるだけであって、斯くあるべしとの規範は立ち得なくなるのではないか。かういふ疑問が生じる。それに対するアウグスチヌスの答えが面白い。曰く、治癒の見込みのある跛者(あしなえ)に対して、我々はその跛は癒さるべきであると要求する権利がある。我ら自身が医(いや)すのではないけれども、医してもらへ、すて置くべからずと要求することは正当である。我らの罪は恰(あたか)もこの跛のやうなものである。さうして基督はその医者である。我らが罪を去るべしと提唱するのは、我ら自身にその力ありと自恃(じじ)するからではない。基督にその力ありと信頼するからである。この故に我らは我らみずからにその力なき事につき、敢て規範を立て当為を要求するのである。とかいふ趣旨の答である。(「人の義の完成について」De perfectione justitiae hominis 三ノ五)」*

 ここで言わんとしている事は、すべては神からの恩恵ではあるが、人間の側としては救いに関して人間の力は無力であり、基督にこそその力がある事を認め、救いを神に頼り、祈り要求する権利がある、という事と思います。
 人間のできる事は、己の無力を認め、キリストに祈り願うことのみであります。自分の力で救いに至るとか、自分の力で人を救えるなどと考える事は神に対する僭越なのであります。

3.私の与えられた信仰
 
私は『十字架の祈り』という伝道雑誌を発行していますが、今月の2018年10月号の巻頭言に「私の与えられた信仰」と題して、以下のような文章を書きました。私の与えられた信仰、ですので、私が努力して得たものではなく、神の一方的な恩恵として与えられた信仰という事です。

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「私の与えられた信仰」

わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。
神にわたしの救いはある。

        (詩編第62篇2節)

 私の与えられた信仰は隣人のものではない。今から語る私の信仰と、読者の皆様の信仰が違っていてもよいと思う。信仰は恩恵であり、人間の規定するものではありえないからだ。神は一人一人にふさわしい恩恵をお与えになるからだ。
 だいじなことは、己の信仰が神からの恩恵、つまり神からの恵みであり、人の側が自分で作ったり隣人のものを自分にあてはめたりしない事だ。教義というものがあるが、それが人の側からの制作物である時に、信仰は偽りになるのではないか。

 私は真理を求めて日々祈る中で、十字架が与えられた。それは否定しがたく天来ものであった。そしてそれは私の外にあった。今でも外にある。イエスがエルサレム城外で十字架刑にかけられたことに関係するのであろうか。
 その十字架を仰ぐ時、それは自分の外に在るのだから、生来の自分はそこに消える。そしてその十字架には罪なき神の子が架かっているのだ。その罪なき神の子を仰ぎ見る時、生来の自分は死に、罪なき神の子の十字架のみになるのである。

 罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。
(コリント信徒への手紙二  5:21)

 罪なき神の子を仰ぐ。私の信仰はそれだけである。罪ある私は罪なき神の子を仰ぎ見る時、死ぬのである。そして限りなくわが身の罪はそぎ落とされる。罪なきキリストによって清められるのである。
 私の体の中にはアダム以来の原罪がうごめき、わが身を突き上げるのだが、それからの解放が速やかになされるのである。原罪に苦しむ者を救える御方は罪無きキリストしかいないのである。

・・・・・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・・・・・・・

 私も私自身を信じていない。私の内側はどろどろとした肉の欲求に満ちている。しかしただひたすらに罪なきキリストを仰ぐ時、自己は低められ、罪から解放された平安を覚えるのである。
 信仰においては、自己凝視をしてはならない。他者なる罪なき御方を見ねばならない。
 今日「自己実現」が騒がれる世相の中にありて、他者なる神実現の道を歩む道すがらを証しすることは、決して無駄ではないであろう。自己実現の生き方は、今や人間の魂を破壊し、世界を危機に陥れているのではないだろうか。
 恥ずかしながらの告白ではある。そしてこれが自己主張にならぬ事を祈る。このような事を表白する信仰者が少ないように思え、キリスト信仰が所詮あいまいなものに受け止められ、信仰に挫折する人々がいるかと案じ、思い切って書かせて頂いた。

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4.結語
 伝道を始めて9年経つのですが、その間に知ったことは、どこまでも自己の無力でした。自己に死にキリストに生きるという事に、否応なく追いつめられて行きました。その意味では、絶望しながら希望を与えられてきた、ということなのかもしれません。
 絶望は希望の端緒である、人間それ自身に絶望する時に初めてキリストという本当の希望に寄り縋ることができる、そう思います。
 現在私の集会に来られている方々は、おそらくはそのような私の愚鈍な歩みに密かな共感を示して下さっている方々かと思います。いいや何よりも、私が喘いだ末にたどり着いたキリストを、それぞれの苦衷の中で、仰いでおられる方々である、と思います。
 無教会にはサクラメントがありません。何もありません。しかしキリストを喘いで祈る祈りのみがございます。
 今回の全国集会のテーマは「応え給う神」です。これまでの私の人生で、神が私の何に対してお答えくださったのかはよくわかりません。ただ幼き時から、私は真実とは何であろうかという疑問を常に持っていました。そのような私の生涯をかけての疑問が幼少時に与えられた事も神の恩恵によるのであろう、そしてその喘ぎにお応えくださったのも神の恩恵であろうと今、感じています。
 三谷隆正先生は「伝道は恩寵(恩恵)の体験の解説でなければならぬ。・・・己の恩寵(恩恵)の体験を豊かにせよ」と言われています(括弧内筆者)。*4 私自身の伝道活動に当たり、この事を再確認してまいりたいと存じます。                                    

 以上

*1 矢内原忠雄『土曜学校講義』第4巻、みすず書房、1972年、6頁参照。

*2金子晴勇『アウグスチヌスの恩恵論』知泉書簡、2006年、290頁。

*3 三谷隆正「アウグスチヌス」『三谷隆正全集』第1巻、岩波書店、昭和40年、295頁。

*4 三谷隆正「伝道神髄」『三谷隆正全集』第1巻、岩波書店、昭和40年、148頁。