駒込通信 第56号

 

「葬り」

【聖書箇所:マタイによる福音書8章21‐22節】

21ほかに、弟子の一人がイエスに、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。22イエスは言われた。「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」


イエスに服従し歩もうと決心した弟子の一人が、その段取りとして自らの「父の葬り」をしてから従いたい、とイエスに懇願している場面です。
 イエスは無碍(むげ)もなくその願いを一蹴され、イエスご自身への服従を命令しました。
 この厳しい言葉の背後に私どもは何を見るべきでしょうか。イエスは、言外にこのようなことを言いたかったのではないでしょうか。

 

「すべてを捨てて、わたしの死を看取りに来なさい」。

 

真正の弟子ならばすべてを捨てて、十字架にかかげられる私を見よ、という命令です。

 

人間の生に於いて、何が一番たいせつなことでしょうか。それは真実を見上げ歩むことなのです。それは残念ながら、肉親の葬式に出席しても得られぬものなのです。

 

特に当時のユダヤ教では、「日ごとの祈り、律法の学び、神殿の奉仕、割礼を守ること、過ぎ越しの祭りの犠牲を殺すこと、メギラ(巻物)を読むことなどの宗教的義務などより、父の葬りの方を優先させねばならない」(ミシュナー;ベラホート3:1、メギラート3b)というものでした。肉親の父の葬りは最優先事項だったのです。

 

イエスはそれを否定しました。つまり、当時のユダヤ教が見失った真の命への回帰を極端な言動で示したのです。

 

「イエスの死を看取る」。これこそが人生の一大事です。その歩みにおいてこそ、真実に肉親の葬りもできるのです。

 

そしてここまで強烈な表現をせざるを得なかったイエスに、心から感謝をします。私ども人間の鈍感さは、ここまで極端な神の言葉の力を要するのです。

 

8月23~28日に、「日朝国交正常化をすすめる神奈川県民の会第2次訪朝団」に加わり朝鮮民主主義人民共和国を訪ねました。26日には平壌にある2つのプロテスタント教会の内の大きな方のポンス教会へ表敬訪問をし、キリスト者政治連盟の坂内義子委員長と共に、孫孝順(ソン・ヒョスン)主任牧師、宋鉄民(ソン・チョルミン)担任牧師にご挨拶をし、朝鮮基督教聯盟委員長宛親書(差出人:キリスト者政治連盟 坂内義子委員長)をお渡ししました。

 

教会堂に入ったところに、教会堂建築献金主名が彫られたプレートがあり、その前で孫牧師が以下のように語りました。
 「朝鮮戦争で、平壌市内にある教会堂がすべて破壊されました。礼拝をする場所もなくなりました。そして具合のよい家へ集まって家庭礼拝の方式が導入されたのです。その後、募金と国家的支援によって1988年にこの教会堂が建設されました。その時から礼拝を始めましたが、2005年に今の会堂に改築しました。改築が終わってから2008年4月復活祭の時からまた礼拝を始めました。
 それは2000年の北と南の6・15共同宣言のおかげだと思います。それで共和国と南朝鮮のキリスト教の信徒たちが力と知恵を合わせてこのように新しく改築しました。イエスの御心に合う教会だと思います。
 改築に協力した南朝鮮の教会・団体名をここに記しています。分裂の衝撃を越えてここに至りました。皆さんが訪問してくださったことをうれしく思いますが、日本は一番近い国でありながら、一番遠い国のままです。地理的に近いだけではなくて、心も近い国にするために皆さんがこんなに努力をしていることを本当に心から感謝します。」

 

共和国全体としては、南朝鮮(大韓民国)を今日の政治状況に鑑み批判する傾向にありますが、教会に於いては南の献金と友情に感謝を示しているのです。ここに、世俗を越えた主にある一致を見ることができるとともに、半島統一への教会のかけがえのない役割をも感じました。
 一方、そのプレートに日本の教会・集会が名を連ねていないことを残念に思うと同時に、日本の教会・集会の戦後の歩みにおける認識不足と鈍感さを痛感しました。

 

朝鮮半島分断の現実を考えるときに、日本人としてはかつての植民地支配の責任を逃れ得ないでしょう。その厳然たる罪責に対する謝罪と悔い改めなしには、共和国を批判することは許されないと私は思います。日本人は半島統一のために働かねばなりません。

 

共和国の外務省の担当者とも面談をしましたが、その担当者はこのようなことを語りました。「年をとられた先生方が国交正常化のために努力する姿は感動します。次世代が努力するとは率直に言って思えません」。

 

日本に帰ると次期衆院選、そしてそれを見据えた各党の党首選の話題がニュースをにぎわしていますが、どの政治家の顔ぶれを見ても、若返りは見られますが、アジアの平和を真剣に考える人物は見当たらないことに、絶望感を深く抱いています。

 

今や日本人一人ひとりが、イエスのあの厳しい言葉を真摯に受け止め、何が命の歩みであるのかを再認識することが大事と思います。

 

神は恵みとして、人間の鈍感さに対して強烈な言葉で覚醒をはかります。まさに「晴天の霹靂(へきれき)」のごとくに御言葉を賜るのです。今回のイエスの言葉もその一つと言えましょう。

 

その突然なる厳しき恵みに感謝をしたいと思います。

 

目先の偽りの現実を放棄し「イエスの死を看取る」。それは真正のイエスの弟子としての、十字架へ向かう古き自己の葬りの道です。まずは自らを葬り去るべし。そこにこそ命の道が開けるのです。この切実なる神の要求に、今、各自が気付かねばならないと思います。  

そしてこの立ち行かなくなった日本も、一度葬られねばなりません。
 晴天の霹靂よ、来たれ!

(2012年9月5日)


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