無教会・駒込キリスト聖書集会リンク集

 

単純なる福音

 

 「神にありてもっとも深いものは愛である。人にありてもっとも深いものは信である。神は愛をもって人に臨みたまい、人は信をもってこれに応えまつる」

(内村鑑三『一日一生』11月19日より)

 

 無教会の精神とは、これであります。ここには洗礼、聖餐などのサクラメントは一切介在の余地はありません。神と我のみであります。もっとも本質的なことは、実に単純であり、とっつきにくく見えるものであります。
 しかしそのようなものこそ、人が一生をかけて証しすべきことではありませんか。その証しは、生涯の歩みを通しての神讃美へとなり行くのであります。

 

伝道者 荒井克浩

 



 

<今月の言葉―伝道所の掲示板より―
  生きる根拠

 

 人の存在が他人に価値をつけられて色づけられ、他人の価値観によって決められた結果、自己に失望・絶望し、行く手を見失うという事が今日の状況ではないかと思う。次の言葉は内村鑑三の弟子である畔上賢造(あぜがみ けんぞう)の言葉である。人の生きる根拠は人間にではなく神に帰されねばならない。それを知る時、人は初めて本当に生きる事ができるのである。

 

 「私は唯在るだけのものである。ほかに何の価値無きものである。しかし神が私を在らしめたが故に私はあるのである。神が私を在らしめずして私の在る筈がない。神が私を在らしめたと云ふのは、私といふ者を在らしめる必要が彼にあったからのことである。どんな必要であるかは私には解らない―何の必要ありて天地萬有を彼が造ったか解らぬやうに、解らない。けれども解らなくてもよい。ただ彼が必要があったから私を在らしめたのだ、と云う事さへ解ればよい。そして之が私の最も強い、最も深い、最初にして且つ最後の私の拠り処である。私はこの一義を我魂にしかと抱いて、荒波の湧きかへる現世を歩いてゆくものである。」
                       (畔上賢造「私はたゞの人である」より)

 

 いかなる者も神に必要とされているから生かされているのである。人によって生きるのではないのだ。
                             ( 2019年4月1日 )

 

 

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★伝道・集会・無教会に関する短文ー「恩恵」ー

 

★「無教会の概要」(2012年4月30日に駒込キリスト聖書集会伝道所で行われた「福音の前進と無教会」講演会の新聞記事より; キリスト新聞7月7日付号・14日付号)

 

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