駒込通信 第61

 

「神の民の群れが建つ岩」

【聖書箇所:マタイ16章15‐19節】

15イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」16シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。17すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。18わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。19わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」


主イエスはここで、ペトロという岩の上に、私の教会を建てるとおっしゃられています。

 

ここでの「教会」は、ギリシア語のエクレシアであり、第一義としては、「集会」、「人々の集まり」です。そしてこの名詞は、「呼び集める」(エクカレオー)という動詞からのものです。

 

つまりは「呼び集められた者たちの群れ」ということが、ここで言われる「教会」の意味するものであり、決して建築物ではないことに注意をしましょう。ですから、これは「集会」と訳してもよいのです。

 

それでは「ペテロという岩」とはどういう岩なのでしょうか。

 

イエスが十字架に架かられる直前に、ペトロはイエスに「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言いました(26:33)。しかしその言葉に対してイエスは「あなたは今夜、鶏が鳴く前に、3度わたしのことを知らないと言うだろう」と予言しました(34節)。ペトロは、「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と答えました(35節)。

 

その日のうちに、イエスは祭司長や民の長老たちが遣わした大勢の群衆によって捕えられ、大祭司の屋敷で開かれた裁判によって死刑にされようとしていました。人々はイエスに死刑を求め、イエスの顔に唾を吐きかけ、こぶしで殴り、平手で打ちました(26:57-68)。
 そのとき、ペトロはそのすぐ外の中庭におりました。そこでの人々の問い質しに、イエスのことを「知らない」と3度言ってしまったのです。自己保身から師を裏切ったのです(26:69-75)。
 それは同時に、かつてのイエスに対する「あなたはメシア、生ける神の子です」(16:16)というペトロ自身の信仰告白の、根源的否定でもありました。神を否定する罪がそこにあるのです。
 イエスのあの予言は的中したのです。

 

ルカ福音書の並行箇所には、ペテロが3度目の否定をしているときに、「主は振り向いてペトロを見つめられた」(22:61)とあります。
 そしてペトロは、「鶏が鳴く前に、3度わたしのことを知らないと言うだろう」という主の言葉を思い出し「外に出て、激しく泣いた」のでした(62節)。

 

私は、罪を犯したペトロを振り返り見た主イエスの眼差しに、復活のイエスの眼差しを見るのです。人間の愚かさ・不信をすべて知る愛と赦しの静かな眼差しです。

 

この眼差しがあるからこそ、人間は生きることが赦されるのです。この眼差しがあるからこそ、人類は存続が赦されるのです。

 

後日主イエスの十字架の後に復活のイエスに出会ったペトロは、初代教会の重要な担い手となり、そして異邦世界へまで福音を伝える大伝道者となりました。彼の最期は、ローマで迫害に合い、逆さ十字架刑での殉教であったと伝えられています。
 先の「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と答えたペトロの言葉は地上の生涯の最期に成就したのです。(マタイ26:35節)。

 

あの時の主イエスの眼差しには、復活のイエスに至る愛と憐れみが秘められていたと私は信じて疑いません。本来ならば死に値する人間の存在を根源的に赦すに至るイエスの憐れみの眼差し、つまり「罪の赦しの福音」こそ、主イエスがペトロに対して告げられた「岩」の真実であると信じます。

 

その岩の上にこそ、神の民の群れは建ち得るのです。

 

自殺者が年間約3万人であり続ける日本の社会に、沖縄の人々を蹂躙し続ける沖縄県以外の日本と米国に、原発の偽りに、国政における実際的勢力が結集されつつあり、民主主義憲法が国家主義的憲法へと改正が目論まれ、再び戦争へと進み行こうとしている日本に、また流血の惨事が絶えない世界の状況に、「主イエス(神)を知らない」と3度言ったあのペトロのごとくの神を否定する根源的罪を見出すのは私だけでしょうか。その深き罪が、主イエスによって赦されない限り、残念ながら人類は破滅に向かうでしょう。
 その極限の状況に、特に今の日本は来ていると思います。

 

主の民たちは、今、形のみの信仰ではなく、しっかりと主の憐れみの岩の上に建ち続けることこそが絶対的使命です。

                             (2013年2月20日)


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