駒込通信 第64

 

「十字架の祈り(その2)」

【聖書箇所:ルカ23章33-34節】

 

33「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。34〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕


私の個人伝道雑誌『十字架の祈り』創刊号(2013年6月号)に、雑誌名の所以(ゆえん)ともいえる文章を掲載した(「十字架の祈り」ローマ書8:31-39)。
 その文章の最後は「矢内原先生の戦いは、単なる朝鮮伝道ではなく、まさに万物復興の戦いであったのです。そして今日私どもの日々担う戦いも、等しく万物復興へと向かうものであります。/その歩みの一番深いところに、主イエス・キリストの十字架の祈りがあることを忘れてはなりません」という言葉で閉じられている。
 また巻頭の「『十字架の祈り』創刊の言」の中で「万物復興の実現の要は「十字架上の祈り」にある。そしてその祈りは私どもの祈りではない。主イエスの祈りなのである。/それがゆえに、この誌名を『十字架の祈り』とした」とも述べた。
 
 私たち人間の祈りがどれほどのことか・・・と思う。真実の祈りは十字架上にあり。その祈りは主イエス御自身の祈りであると信じる。私たちが祈るのではなく、神の子が祈るからこそ、救われるのである。神御自身がわれらのために祈ってくださるからこそ、その祈りはかなうのである。

 

罪の赦しは救いの根幹である。それは私どもの祈りではなく、主イエスが十字架上で祈ってくださっている(現在形)からこそ必ずかなうのである。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(34節)。

 

私たちは主に祈られるほど罪深いのである。

 

主が十字架上で私のために、「今」、祈っていてくださっている。自らの命と引き換えにしてまでも。だからこそ、私たちは救われるのである。
 その主を知り得た時に、初めて救われるのである。

 

人生の歩みの奥底で、主イエスが私のことを祈ってくださっている事実を知ることは、疾風怒涛なる、罪と苦しみ多き人生のかけがえのない支えである。
                              (2013年11月7日)

                          


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