駒込通信 第66

 

「歴史の中枢」

【「歴史の中枢」(内村鑑三)】

 

われ史を繙(ひもと)いて国は興(お)きてまた亡び、民は盛えてまた衰(おとろ)うるを読む。ただ見る一物(いちぶつ)の時代の敗壊の中にあって巍然(きぜん)として天に向って聳(そび)ゆるあるを、これキリストの恥辱の十字架なり。世は移り人は変わるとも、十字架はその光輝(ひかり)を放って止(や)まず。万物ことごとく零砕(れいさい)に帰する時にこれのみはひとり残りて世を照らさん。十字架は歴史の中枢なり。人生のよって立つ磐石(ばんじゃく)なり。これによるにあらざれば鞏固(きょうこ)あるなし、永生あるなし。余はみなことごとく蜉蝣(ふゆう)なり。これのみが窮(きわま)りなく存(たも)つ者なり。(全集第12巻164頁)


詩編第102篇13-14節に、「主よ あたなはとこしえの王座についておられます。/御名は代々(よよ)にわたって唱えられます。/どうか立ち上がってシオンを憐れんでください」とあります。暗闇に落ちたシオン(エルサレム)の再建を祈る詩人が、すでに永遠の王座に就かれている神に拠り頼み、その立ち上がりを願う祈りです。

 

「特定秘密護持法」は12月6日夜、多くの市民の悲鳴の中、成立しました。私も事実2日間ほど虚脱状態でした。この具体的な危機に、これからどう進むべきなのかと、神の御意志を祈り求めました。

 

ある敬愛する方からお手紙をいただき、詩編をよく読むべきであるとの感謝すべき示唆を受けました。その方は「今は主の立ち上がりを祈ることがだいじ」と言われ、そのことを示す言葉を私はこの詩編第102篇に見出しました。
 感謝する一方で私は、神はすでに立ち上がってくださっているのではないか、その立ち上がられている神はどうイエスの御姿に見る事ができるのかと祈り考え続けました。そして8日聖日の明け方、まだ床の中で夢とも何とも言い難い中で、冒頭の内村鑑三先生の「歴史の中枢」の文章が脳裏に浮かんで来ました。

 

この文章に関することを、高橋三郎先生も同題で高橋聖書集会の週報に書いておられます(週報第245号(2007年10月7日号)、『十字架の言』2007年12月)*
 「ただ見る一物(いちぶつ)の時代の敗壊の中にあって巍然(きぜん)として天に向って聳(そび)ゆるあるを、これキリストの恥辱の十字架なり」。
 歴史の中枢に立つ十字架は、私どもの人生の盤石の基盤でもある。ここに歴史に聳える永遠の十字架と個人の人生の中枢に聳える十字架が一つになるのです。いや、もともと一つなのです。

 

国家が秘密を持ち国民が本来知るべき重要な情報が閉ざされんとして、今や人々が知的に捉え掴むべき何物もない暗闇へ陥らんとしている恐るべき状況下で、ふと見上げると、実にそこに確固たる永遠の真理の山が聳えているのです。

 

この聳え立つ「十字架」こそが私どもすべての日本人が、“今”縋り立つべき岩であります。そしてこの十字架にどのように生かされるかを、内村先生の以下の言葉から学びましょう。

 

キリスト我等の罪を負い給へりと云ふは彼れ我等に代りて神に罰せられ給へりとの意にあらず、我等の罪を己が罪なるかの如くに感じ、痛(いた)く之を嘆き給へりとの意なり、我等罪を犯してキリスト傷(いた)み給はずることなし、そは彼は罪を憎み給ふと同時に又我等を愛し給へばなり、我等は罪を犯すたび毎(ごと)に、更らに彼を十字架に釘(つ)けつゝあるなり、彼の聖体を傷(きずつ)くる者は鉄の釘にあらずして人の罪なり、我等彼を休め奉らんと欲せば、罪を去て之を遠(とおざ)くべきなり。ヘブル書6章6節。(「負罪の意義」、全集第18巻13頁)

 

「我等は罪を犯すたび毎(ごと)に、更らに彼を十字架に釘(つ)けつゝあるなり、彼の聖体を傷(きずつ)くる者は鉄の釘にあらずして人の罪なり」。十字架にイエスを釘づけたのは、私の罪である、との自覚です。これが十字架に生きる者たちとして、決定的にだいじなことです。そしてイエスの贖罪の業を休ませようとするならば、我らは自らの罪から去って遠ざからねばならぬ、というのです。
 イエス我らを愛し給うがゆえに我らの罪を赦し給う。その赦しの恵みを頂くと同時に、私たちは、主を十字架に釘づけたのはわが罪であるとの自覚を持つことが、限りなくだいじなのです。さらにはイエスを釘づけない生き方をすることが大事な生き方です。  
 その自覚の下に、反対すべきことには反対し、なすべきことをなせるようになるでしょう。十字架の下にこそ、自立した個人と国家の義と愛が確立するのです。

 

この自覚こそが、特定秘密保護法を施行までの間に廃案に持ち込む働きの下支えであります。いたずらな反対・運動ではいけません。人の行為は、この十字架を仰ぎつつのものとならねば単なる人間的なものに堕してしまうのです。
 この仰瞻(ぎょうせん)は、キリスト者のすべての営みの原点であると信じます。

 

これをまず私が、皆さんが、真剣に行いましょう。これが歴史の中枢に聳える十字架を仰ぎつつの歩みです。それを個人が、国がなし得るときに、日本の神観は変わり、戦前の国家神道を引き継ぐ天皇制から脱却し、この国の只中に聳える主の十字架は民の讃美に包まれるのです。
 「特定秘密保護法」成立の根底に、日本の神観の問題が決定的にあることに気付き、その解決に祈りを集中させることこそ、今なすべきことです。
                              (2013年12月9日)


* この高橋先生の文章は、『十字架の祈り』12月号掲載の聖書講話「人生の基盤・国の基盤」に記載し言及します。


トップページへ