『十字架の祈り』2014年7月号より

 

「無境界」

  
イザヤ書25章6-10節a

6万軍の主はこの山で祝宴を開き
すべての民に良い肉と古い酒を供される。
それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。
7主はこの山で
すべての民の顔を包んでいた布と
すべての国を覆っていた布を滅ぼし
8死を永久に滅ぼしてくださる。
主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい
御自分の民の恥を
地上からぬぐい去ってくださる。
これは主が語られたことである。
9その日には、人は言う。
見よ、この方こそわたしたちの神。
わたしたちは待ち望んでいた。
この方がわたしたちを救ってくださる。
この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。
その救いを祝って喜び躍ろう。
10主の御手はこの山の上にとどまる。

 



  要は肉を食べ、酒を飲むことではない。神の側にたつことである。
 ここで語られているのは、「すべての民」(2節)、つまり誰にでもどんな人々へも「良い肉」を与え、「酒」をもてなす、分け隔てのない神の心である。
これこそがだいじである。
 パンを食べ、ぶどう酒を飲み、自分が救われることを求めてはならない。
 「パンを与え、酒をもてなす」神の心をわが心とせよ、そう神はお示しになっておられるのである。
 もらうことではなく、与えること。境を作ることではなく、壊すこと。儀式ではなく、心である。
 聖餐とはこれである。
 生ける神の聖餐に与るときに、人は無境界となる。
 無教会は無境界である。
 主の憐れみに感謝。



トップページへ