『十字架の祈り』』2016年2月号より

 

<今号の視座>
 魂の救い

                 1


十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。

    (Ⅰコリント書1章18節)


 内村鑑三の『一日一生』3月17日のところには、この聖句が掲げられており、以下の『宗教座談』からの抜粋が記されています。

 

いかにしてわが霊魂を救わんか―この号叫の声がなくしては、とうていキリスト教はわかるものではありません。キリスト教はある人がいう仏教のような、哲学の一種ではございません。また禅宗のやうな、胆力鍛錬のための工夫(くふう)でもありません。キリスト教とは霊魂を救わんための神の大能であります。キリストの降臨といい、十字架上の罪の贖(あがな)いといい、みな要するに霊魂を救わんがための神の行為でありますれば、これらの出来事を霊魂以外のことがらにあてはめては、その真義は少しもわからないのでございます。*1

 

『宗教座談』には、この言葉の後に、次のような文章が続いています。

 

もし我々の肉体の病を治すことがキリストの目的でありましたならば、彼は僅かに医師の一種たるに過ぎない人でありましてさほど尊重すべき人ではございません。もしまた世にいう社会の改良がキリストの本職でありましたならば、彼は政治家の一種でありましてギリシアのペリクリース、ローマのシーザーと肩を並べるくらいの人でありましたでしょう、しかしキリストは医者でもなければ政治家でもございません、彼の天職は霊魂の救主(すくいぬし)たる事でありまして、彼の為されし仕事の性質から申しても彼は人類中に比類のない者でございました。霊魂を救う者とは人の犯せし罪を赦し、その良心に満足を与える者でございます。*2

 

キリストの「天職は霊魂の救主(すくいぬし)たる事」、これを心に刻みたいと思います。彼の働きの本旨は、病の癒しではなく社会改良でもないのです。どこまでも魂の救い、であります。
 信仰者はこの視点を揺るぎ無く持たねばなりません。

 

                2

 

私は若い時から、真理が何かが非常に気になっていました。魂の救いです。生きる上で自分がほんとうに拠って立つものが分からなかったのです。わが魂は不安定でした。さまざまな「生き方」の本を読みました。サラリーマン時代には、会社で派遣され自衛隊のような訓練を基にした「地獄の特訓」のようなものにも参加しました。妙に愛を訴えるレクチャーなどにも参加しました。20代には教会へも通ったのです。その後教会を出て熱心に禅宗の修業を始め、雲水と共に接心(集中して坐る座禅会)も夏・冬に寺に泊まり込んで参加しました。近くの禅寺でも毎朝坐りました。それでも真理がわからない・・・真理の探究=わが魂の救い、それが私の人生の大半の課題でした。
 そして神によって再び神の身許に招き寄せしめられ、今日に至りました。

 

                3

 

今号の三編の聖書講話のうち二つは「イザヤの召命」です。イザヤは実に神に彼の魂を救われ、預言者とされたのでした。この二つの講話の執筆に当たっては、私の人生の模索と苦しみの末にたどり着いた主の恵みを重ね合わさざるにはおれませんでした。以下の講話の背後に、私の人生の悪戦苦闘とたどり着いた主の恵みをお読み取り頂ければ幸いです。また他の一編も、結論は救いへの道すがらを示すものとなりました。
 イザヤ書は学べば学ぶほど深い真理を示してくれます。イザヤの時代には主イエス・キリストは地上にはまだおられませんでしたが、その預言の背後には、すでに世の初めよりおられる先在のキリストの霊感が通底しているのです。
 ゴルゴダの丘は思ったより遠かったです。しかし思ったより近い所にありました。それはいつも私の頭上にありました。私には約50年もの間、それが見えなかっただけでありました。
 そしてキリストの側から私に近づいてくださった。
 十字架こそわが救い、神の力であります。

 

*1 内村鑑三『一日一生』3月17日、昭和60年第18版

*2 内村鑑三『宗教座談』岩波書店、2014年、85頁。


トップページへ