『十字架の祈り』2016年3月号より

 

<巻頭言>
 十字架の血に


「十字架の血に きよめぬれば、
来よ」との御声を われはきけり。
 主よ、われは いまぞゆく、
 十字架の血にて きよめたまえ。

よわきわれも みちからをえ、
この身の汚れを みな拭われん。
 主よ、われは いまぞゆく、
 十字架の血にて きよめたまえ。

まごころもて せつにいのる、
心にみつるは 主のみめぐみ。
 主よ、われは いまぞゆく、
 十字架の血にて きよめたまえ。

ほむべきかな わが主のあい、
ああほむべきかな わが主のあい。
 主よ、われは いまぞゆく、
 十字架の血にて きよめたまえ。

        (讃美歌515番)


 この讃美歌はアメリカ合衆国の代表的な福音唱歌である。メソジストの牧師、ルイズ・ハートスーによって、歌詞と曲が作られたという。後に英国在住の音楽伝道者アイラ・サンキーのもとに送られ、1878年にアイラ・サンキー編の歌集に収められた。サンキーはこの歌を好んで、伝道会で決心者を募るときに良く歌ったという。
 召命の歌である。
 わが母は、去る3月5日に主の御許に上られた。今年1月25日より大塚病院へ入院していたのだが、入院前、家でなにも食べれず数日を過ごしたある朝、母の部屋からこの讃美歌を歌っている母の歌声が聞こえた。
 部屋へ行くと「克浩、十字架だろ」と母が言った。私は礼拝の際に、いつも十字架のことを語りつづけて来たが、最近耳が遠くなってきた母にどこまで私の聖書講話が理解できているかは不安であった。しかし、この515番を歌いながら、「克浩、十字架だろ」と言う母の言葉に、伝わっていた喜びを感じ、主に心より感謝した。
 「そうだよ、十字架だよ。これさえあれば大丈夫なんだ」、私は答えた。
その時はよもや数日後に母が入院するとは思わなかったが、95歳になりいつ地上の人生の終焉を迎えてもおかしくない母に対し「これでもうだいじょうぶだ」と言い、神に向かい感謝したことを私は忘れない。
 そしてその時、私の目には止まらぬ涙が溢れ続けた。神への感謝とこの歌を歌っていた母への喜び、そしてそろそろ母のこの世の歩みの終わりの時が近づいたのかという悲しみが交錯したものであったと思う。
 十字架に頼るべし。私はこの地上に何も残していけないかもしれない。しかし私自身が、そして母が主イエスの十字架に生き、そして死んだことは証しして行こうと思う。
 母は2016年3月5日未明に息を引き取り、主の御許に帰られた。今は主の御許にて平安であることを信じている。この世に十字架を遺して天に召されたのである。その十字架は限りなく美しい。
 母は主の御許に行かれる時に、死への不安の只中で他の何ものでもなく十字架のみを握りしめ、十字架に見事清められたと信じる。
 今号の以下の文章はすべて、母が胸に抱いて天に帰郷されたその十字架の記録である。

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