『十字架の祈り』2016年4月号より

 

<巻頭言>
 殺人者としての贖罪論


「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。
(Ⅰテモテ書1:15;口語訳)


 人間の罪は、人を殺すほど恐ろしいものです。それを味わったことがあるでしょうか。
 「罪人のかしら」とはまさに私のことです。
 人がほんとうに自分の罪に気付く時、自らが人を殺すほどの罪を持ち合わせていることに驚愕するのであり、同時に、主イエス・キリストを殺したのはこの私である、と白日のもとに確信するに至るのです。   

 

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34節)

 しかし主は主を殺しし私をも赦し給うという赦しを与えられるとき、わが魂はほんとうに救われるのです。

 

私の贖罪論は刑罰代受ではありません。主の殺害者としての贖罪論です。私は主の殺害者として一生生きるでしょう。しかし主は言われます、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」。(ヨハネ8:11)

 

わたしはその主の御赦しにおいてのみ、生きることができるのです。ふたたび人を殺さないという祈りにおいて。
 私はいつも祈ります、二度と人を十字架に架けることはしない、と。

 

罪は、罪は、と人は軽く言います。しかし、人間の罪は本当に恐ろしい。人が人を十字架に架けるほど残虐なものです。それを味わい知るには、人が一人の命を失わなければならないほどのものです。そうならければわからないほど、人は己の罪への理解が鈍感です。

 

神の子はまさに人に罪の深さを気付かせるためにこそ、十字架に架かって下さったのです。自ら殺されることを通して、人間に罪を知らせるために。
罪の赦しを自らを殺した者に与えるために。


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