神が罪となった―贖罪論から信仰義認論へ


 

ありのままの姿で


 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」。と言った。そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ。決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」                      (マタイによる福音書18章1‐5節)


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 子どもは親が愛しているからこそ親の前では、自由奔放に、ありのままの姿でいることができます。神と人との関係もまったくそのようです。神に愛されていることを知るときに、子なる私たちは、安心して、自分のありのままの姿でいることができるのです。

  弟子たちは、天国での出世まで考えています。人は、自分の出世、この世での立ち回り、そのためのとりつくろい、に励み、本来の自分でない自分を造り上げ、疲れてしまいます。そのために精神は疲弊し、病にも至り、体の健康も損なうのです。

  しかしイエスは子どものようなありのままの姿でよい、そのような者でなければ神の国に入ることはできない、と言っているのです。

 神の国は、神に愛されている者たちの集うところです。父親なる神の前で、自由に何のとりつくろいもなく、喜び、悲しみ、苦しみ、大声で笑う者たちのいるところです。

 神に愛されている、そのことを知るのは、神に子どものようなありのままの姿で受容されるときです。

 罪を犯しても犯したままで、悔い改めることができないならばできないままで、贖われなくてもよいからそのままで、そのままの姿で私のところへいらっしゃい、という神の招きにそのまま〝はい″と言って受け入れられる者は、救いはありのままの姿で神に受容されることだと気付くのです。救いとは、悟ることでも偉くなることでも聖くなることでもありません。ただそのまま、今のありのままの姿で神に受容されることです。

 ありのままのあなたでよいのです。神はそのような者を受け入れ、喜びます。

 (2022年9月1日) 伝道者 荒井克浩