信仰義認から義認信仰へ


 1年前に、私は「神が罪となった―贖罪論から信仰義認論へ」と題して、私が贖罪から信仰義認へと信仰を変更させたことを公にした(2022年5月16日「短文」)。


 そこでは、Ⅱコリント5:21を掲げて、このようなことを記していた。

 「神は不信仰の者―罪人―となり、無力な者、苦しむ者、悲しむ者、貧しき者、の姿になり、その者の前に現れ、その者を受け入れ義とするのである。その時、無力な者は無力のままで、苦しむ者は苦しむままで、悲しむものは悲しむままで、貧しき者は貧しいままで、ありのままの自分で、そのままで救われるのである。そのままでよい、との神の然りを心の耳に聞くのである。そのような慰めの神を私は信じる。パウロと共に。」


 これは実に神の救いの業であり、神の側ですでに救いが実現していることである。人間の側の「信じる・信じない」とは全く関係がなく、神の無条件の愛によって、すべての人々に、すでに成されて完了し続けている救いである。それを知る時に、私はもはやこれ以上「信仰義認」という言葉を使用することが出来なくなった。


 なぜなら「信仰義認」とは「信じて義とされる」という意味であり、救いのためには信じるという条件が必要であることを示しており、かつ「信じなければ救われない」という未だ救われていない状況を示すものであるが、私の与っている救いは、信じる前にすでに救い(義とされること)があるのであり、信じることは後からついてくるものである。「義とされたから信じせしめられる」のである。この気付きに至り、私は私が与えられた信仰を、「義認信仰」という呼称に変更することをここに公にする。


 すでに義とされているという既成事実を知った者には、自ずから信じるということが起こされるのである。救いに至るために信じるという事前の「条件」があるのではないのである。救いは無条件なのである。よく「信じれば救われる」と言うことが語られるが、そのようなものではないのである。


 天地創造の初めからすべての人々と共に神がおられ(インマヌエル;「神我らと共にあり」)、その愛によってそのすべての者たちはすでに神に受領されている。その事実に気付くことのみが人類には求められているのである。すでにもう救われている。この当たり前にして驚くべき事実を語り伝えたいと思う。


 すべての人々はすでに救われている。「義認信仰」である。


                         

 (2023年4月9日 荒井 克浩)