義認信仰からインマヌエルへ



  2024年3月に出版した拙書『無教会の変革』(教文館)では、信じて救われるのではなく、義とさ
 れた者(救われた者)は自ずから信ぜしめられると言い、その「義とされた者は自ずから信ぜしめら
 れる」という信仰を「義認信仰」と呼称することにし、それが私の信仰であると語った。(277頁)
  その後amazonの拙書のカスタマーレビューのお一人の文章に、次のようなコメントがあった。

 「『義認信仰』の『義認』とは『義と認める』ということですから、義でない者も義と認める、
  と言ってみても、人を義か不義かにわけるということから自由になり切れていないように思われ
  ます。」


 確かに「義認信仰」が「義とされた者は・・・」である限り、「義とされた者」(義)と「義とされない者」(不義)の別が認められることになる。
  一方で私は拙書にて、このようにも書いている。

  「人はすでに神の無条件の愛によって救われていることに気付くこと、それのみでよいのであ
   る。また気付かなくてもよい。気付いた者は信仰を与えられる。気付かなくても救われている
   。」
(289頁)


 この私の認識では、救いにおいて「義とされる者」と「義とされない者」の別はない。全ての人はすでに無条件の神の愛によって救われ義とされているのである。全ての人には無条件に神が共にいて下さり、救われているのである。罪人にせよ悪人にせよ、である。そして神が共にいてすでに救われていることに気付いた者は、自ずから信仰を与えられるのである。
 救われていることに「気付かなくても救われている」。なぜなら神は、気付かない者、信仰のない者とも共におられるからである。義・不義とは関係なく、救われているのである。ここにおいて、先のamazonの評者の言われる「義か不義かにわけるということから自由になり切れていない」という問題は解消されている。
 しかしながら「義認信仰」という信仰概念にはその名称自体に、確かに義と「認められる」「認められない」の別を促すものがあるのであり、この名称を用いた私の認識の甘さを露呈している。
 「全ての人には神が無条件に共にいて下さり、すでに救われている」。この救済観は、滝沢克己が明らかにした「インマヌエルの原事実」である。

 解釈の混乱を避けるために、今後私は私の信仰の呼称を、「義認信仰」を止めて「インマヌエル」とさせて頂くことにする。
繰り返しになるが「インマヌエル」とは、次の内容である。

    「神は無条件に全ての人とすでに共にいて下さり、全ての人はすでに救われている。それに気
    付いた者は信仰を与えられる。しかしそれに気付かず、信仰を与えられなくても救われている
    。」


 「義認信仰からインマヌエルへ」――この新たな表明を、イースターに行い得たことに感謝する。

 

2025年4月20日 復活祭
  伝道者・荒井克浩