(※『キリスト新聞』二〇一四年七月七日、十四日付号より。一部修正しています)

 

「福音の前進と無教会」講演会報告

 

無教会・駒込キリスト聖書集会主宰 荒井克浩

 

二〇一二年四月三〇日に、「福音の前進と無教会」講演会が、四人の講演者が立ち、駒込キリスト聖書集会伝道所にて行われました。無教会人のみならず教会からも多く来会されました。
 はからずも無教会の根本的な精神、今日的意味を確認する大事な会となりました。また今日のキリスト教界に対する大事なメッセージも発信されました。
 以下講演者の了解のもとにまとめましたが、貴重な全内容は、『記録集』に委ねたいと思います。

 

講演1〕「内村鑑三のキリスト教―その現代的意義」武藤陽一(テコア聖書集会主宰)
 教文館版『内村鑑三全集』を用い、彼自身の言葉によって、そのキリスト教を紹介いたします。
①根本理解として
 「キリスト教は制度ではない。教会ではない。それはまた信仰箇条ではない。教義ではない。神学ではない。それはまた書物ではない。聖書ではない。キリストのことばでもない。キリスト教は人である。生きたる人である。きのうも、きょうも、永遠(いつまで)も変わらざる主イエス・キリストである。」(「キリスト教は何であるか」信15巻52頁)
②「無教会主義のキリスト教」
 「無教会主義とは、教会はあってはならぬということでない。有るも可なり無きも可なりということである。神の生命たるキリスト教が制度でありオルガニゼーション(組織体)であるべきはずがない・・・信者は教会員ではない。彼は神の風に吹かれて霊によりて生まれたる者である。彼が無形たるや言うまでもない。・・・そして形が神を圧する時に、神は生きんがために形にそむき、これと離れ、これを捨てざるを得ない。無教会主義はかかる場合に起こる主義である。」(「無教会主義について」信8巻36頁)
 洗礼・聖餐に関しては「われらは信仰によりて救わる。行為(おこない―儀式的)によりて救わるるにあらず。これにあずかるはよし。あずからざるもよし。要は、十字架につけられし神の子の贖罪を信ずるにあり。その他のことは細事のみ。」(「洗礼・聖餐廃止論」信14巻201頁)
③「日本的キリスト教」
 「ひとりの日本人が真に独立にキリストを信じるとき、彼は日本的クリスチャンであり、彼のキリスト教は日本的キリスト教である。・・・日本人クリスチャンは全キリスト教を私するわけではないし、クリスチャンになることによって新しいキリスト教をつくるわけでもない。彼は日本人であり、かつクリスチャンである。それゆえ、彼は日本人クリスチャンである。」(「日本的キリスト教」『内村鑑三英文論説翻訳篇下』306頁)
 世界的に見て現代はいかにも「宗教過剰」の時代です。このような時代に、どこまでも霊性に徹しようとする「無宗教無教会」の内村のキリスト教を、改めて省察してみることも意義があろうかと考えます。
 「私のキリスト教は宗教ではない。・・・イエスの教えは決して宗教ではなかった。・・・イエスの教えがキリスト教という宗教となり、彼の弟子が教会という宗教団体を作りし時に、ここに彼の予期したまわざりしものが現れて、彼のご精神は全然没却せられたのである。」(「無宗教無教会」信18巻128頁)

 

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〔講演2〕「万人救済を見据えて」 荒井克浩(駒込キリスト聖書集会主宰)
 私の集会に佐々木愛さんという俳優さんがおり、十月に「るつぼ」という演劇に殉教者役で出演されます。その演劇は実際に起きた「魔女狩り」事件をもとにしたものです。
 「魔女狩り」は中世のカトリック教会の異端討伐に接続しています。問題点は、「なぜキリストを信じる教会が、かくも残虐な異端討伐を行ったのか」ということです。
 最初の異端討伐から約三百年後にマルチン・ルターにより宗教改革がなされるのですが、彼に先立ち、ヨハネス・フスなどの先駆者が異端とされ、火刑などで殺されているのみならず、ルターもまた当時「異端」とされています。
 「異端」をつくり上げいていく思考回路には、「救われる人・救われない人」という「仕切り」があると思うのです。それは少数救済主義という、比較的多くの教会が受け入れている救済観に基づいています。
 ルターの宗教改革の原点は、「信仰による義認」であり、それはパウロがアブラハムの信仰(創世記十五・16)を示してそこへ帰れと語ったローマ書四・9-12に端的に示されているものです。
 「アブラハムの信仰が義と認められた」のは、「割礼を受けてからではなく、割礼を受ける前のこと」でした(ローマ書四・9-10)。つまり私どもが真実に立つ恵みは「洗礼を受けてからではなく、洗礼を受ける前のこと」にあるのです。
 イエスは公生涯で洗礼を授けることをしませんでした。
 したがって宗教改革においてルターが、救いを与えるとされていたカトリックの七つのサクラメントから洗礼と聖餐を残したことは、彼の改革の不徹底と捉えることができます。それはしだいにプロテスタント教会にも「洗礼(聖餐)を受けた人と受けない人」の間に壁をつくり、さらには「救われる人・救われない人」という壁を作っていくことになって行ったと思えるのです。
 (キリストによって)「すべての人が義とされて命を得ることになった」(ローマ五・18)に、パウロの万人救済の思想を見出します。隔ての無い神の支配を見るのです。
 内村鑑三は生涯に「万人救済」に関する四つの文章を書きました。そこには、異端審問制に見られるような断罪の論理はまったくありません。ひたすらに隔てのない救いが謳われています。
 残虐な宗教戦争、すべての争いにピリオドを打つ、隔てのない神の愛「万人救済」の信仰を、無教会が真実に証ししうる信仰の王道として実践していきたい。教会が洗礼・聖餐に救いの第一義を置かず万人に開かれるときに、それは共通の宝となるでしょう。

 

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  〔講演3〕「無教会批判に答える」 高木謙次(市川聖書集会主宰)
 古屋安雄氏の『日本のキリスト教は本物か?』(教文館二〇一一年)の以下の文章への応答をさせていただきます。

事実、「武士道は日本国最善の産物であり、世界を救うのは武士道に接木されたキリスト教である」と主張したのは内村鑑三であった(拙著『日本のキリスト教』二〇〇三年、六五―六七頁)。然るに、彼が創始した無教会を初めとして、日本の教会の主流は、ぜんぜん殉教のないキリスト教なのである。どうしてなのだろうか。
 日本のキリスト教が、カトリックもプロテスタントも殉教しなかったどころか、軍国主義と妥協したことは紛れも無い歴史的事実である。例外はホーリネス教会の八人の牧師だけである(米田勇『昭和の殉教者』一九六〇年、刊行会編『ホーリネス・バンドの軌跡――リバイバルとキリスト教弾圧』一九八三年を参照)。(五二頁)


 朝鮮でのキリスト教布教の成功は、日本帝国主義下の朝鮮キリスト者の抵抗とくに、殉教死をかけての戦いにあるという主張は重視すべきですが、日本のキリスト者の殉教が少なかった。「無教会を初めとして、日本の教会の主流は、ぜんぜん殉教のないキリスト教なのである」という一文は看過することが出来ません。
 『出版警察報』という特高の報告書には、天皇制国家体制を擁護するものたちが、批判、反対、革命を企画する者たちを徹底的に調査し、弾圧し、体制の権力をほしいままにした報告一覧があります。それには、昭和八年~十一年に三十四件の無教会伝道者の雑誌が報告されているのです。
 昭和六年満州事変が始まりました。この辺りから内村門下の独立伝道者たちの天皇制国家体制への批判が始まっております。「伝道雑誌」を刊行して、それぞれ集会を主宰していた中田信蔵、釘宮徳太郎、金沢常雄、藤沢武義が昭和八年~十一年に度々発禁、削除、廃刊に追い込まれたのです。
 つまり後の特高の本格的活動期までに、無教会の先生方の戦いは、既に終了させられていたということです。
 矢内原忠雄が、黒崎幸吉がヒットラー批判で『永遠の生命』誌が廃刊となった折に詠んだ十四首の中から四首を紹介します。これは金教臣などに招かれて、朝鮮に伝道旅行をしている旅路に詠んだものです。

  これやこの朝鮮の地にわれ在りて 友の誌廃(や)むと今日ぞ聞きつる

  刀は折れ矢は尽くるとも益(ます)良夫(らお)の 膝はバールにかがむを知らず

  打てよ敵離れよ味方十字架の 丘を守りてわれは死なまし
  今日は君明日はわが身かみつばさの 下にしあれば露もおそれず


  右の歌を見れば解るように、矢内原先生は殉教の覚悟を以て、伝道と研究に取り組んだのです。内村門下の多くの伝道者たちもこのような精神で、福音信仰から生まれる非戦平和に生きたのです。
 古屋先生の見方はもっと慎重にしていただきたいという思いが致します。
 著名な『戦時下のキリスト教運動』全三巻(新教出版社)に、昭和八年~十一年の事例が収録されていないことにもよりましょう。

 

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〔講演4〕「『イエス・キリストのみ』の信仰」 坂内宗男(東中野聖書集会主宰)
 ルターの宗教改革は体制化したカトリックを一変させ、特に七つのサクラメント(秘蹟)のうち洗礼・聖餐以外は全廃、プロテスタントと呼ばれ、そしてそれに連なるわたし達なのではありますが、残した洗礼・聖餐のためにルター教会そのものが再びカトリック化し、また洗礼の有無によって教会員と求道者に差別化し、卑近な例でも日本基督教団の如く未洗礼者を聖餐にあずからせた牧師を免職(牧師にとっては死刑に値する)し、この処置をめぐってプロテスタントで日本最大のこの教会はもはや統一に値しない分裂状態に陥っている惨状にあることから見ても、教会組織としての世俗の営みはそう単純ではなく、むしろ世俗並み否世俗以上に世俗化・堕落していることがわかります。
 このことから見ても、内村鑑三が、大胆にも大事なことは「イエス・キリストのみ」であって、洗礼・聖餐等は第二・三義のもので(どうでもよいという意味ではない)本質的なことではないとし実行した無教会信仰は革命的意義を有し(第二の宗教改革といわれる)、「教会(建物、組織等)なき教会(エクレシア)」の追求は「無教会とは何か」を絶えず追求するに等しく、福音の本質に迫る永遠の課題といえましょう。
 キリスト者の生きざまとは、神とわれとの神の義(正義・公正、縦の関係)とキリストにある神の愛(アガぺー、横の関係)との十字の軋りの中で、血の塩として大地にしっかり足を据え(自らの姿を滅し大地を浄め)、神の国が成ることを信じて、敵をも愛する愛で隣人に使えるむしろ悲哀と苦難を主に在って喜びとする生にあると思うのです。
 三・一一に直面して、日本人の特性たる建前と本音の使い分けの極限が今という現在であることを自覚し、私達日本人(特にキリスト者)の覚醒―真実を見る眼を培うことを求めたいのであります。そして、正義と良心を旨とする現憲法がより実体化する社会形成に参与することこそ日本再生の鍵でありことを自覚したいものであります。
 NCC(日本キリスト教協議会)に三〇年以上関わった小生にとっての体験と学びはかけがえのないものがあります。組織の不条理と言葉の乖離の中で生きる牧師・教会者の苦衷と生きざまを見るにつけ、なにものにも捉われない無教会信仰を得た者の恩恵を実感します。
 他方、受けし恵みの大事さに気付かず安住するたこつぼ的無教会者の福音の枯渇した姿も現実ではないかと思われ、無教会とは何か、絶えず他者との相対化と共働とにより原点に立ち返る心の回生が求められることを強調したいのであります。

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  1. ※講演の全文を収録した『記録集』を刊行しました(頒布価格五〇〇円)。ご注文はホームページ表紙をご参照ください。

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